ブダペスト、ハンガリー国立博物館に行ってみた

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ハンガリーの歴史をおさらいできる博物館~ハンガリー国立博物館とハンガリー自然史博物館・ブダペスト民族博物館/ハンガリー・ブタペスト

ハンガリーという、日本人にとって距離的にも心情的にも身近とは言い難い国の文化や歴史を知るには、これらの博物館へと足を運ぶといいだろう。

教科書や文献では難しく感じられる歴史も、視覚で順を追って眺めていくうちに、ハンガリーが辿ってきた複雑な政治的・民族的・文化的背景を想像以上に感じ取ることができる。

華やかな貴族文化を伝える宝物に目を奪われたかと思うと、ハプスブルグ家や旧ソビエトなど周辺大国による占領やユダヤ人の苦難なども、感情的ではなく史実として淡々と展示されているため、恐怖などのイメージではなく事実としてストンと腑に落ちる感覚を味わえる。

創設者セーチェーニ・フェレンツ伯爵とは

ハンガリー国立博物館の創設に大きく関わった人物といえば、セーチェーニ・フェレンツ伯爵である。

18世紀末期のハンガリーで自由主義を唱えて活躍した貴族であり、政治家でもあったセーチェーニ・フェレンツは、当時のハンガリー貴族としては珍しくウィーンで暮らすことができず、若年時代を没落貴族として、ハンガリー内領地で過ごした。

その結果、ハンガリーの言語である「マジャール語」を理解できたため、その後勉学に勤しみ、啓蒙主義や自由主義の影響を大きく受けて成長した。

次男であったがために、没落貴族の一人にすぎなかった彼だが、兄や叔父たちの死により突如として巨大な富と財産を手に入れることとなった。

この時に手に入れた蔵書がその後の彼の行動に大きく影響を与えている。

セーチェーニ・フェレンツ伯爵の功績

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自由主義を唱える政治家であり巨万の富を相続した貴族でもあった、セーチェーニ・フェレンツは、フランス革命の影響を受けて過激な自由主義者たちが革命を起こそうとする事態を憂い、貴族たちの使用するドイツ語やラテン語ではなく、ハンガリーの言語であるマジャール語の文献の蒐集がハンガリー自身の文化水準を高める必須条件だと考え、過激な革命思想を抑えることにもつながると考えた。

そこで、既に一部には公開していた個人の蔵書を、より広く全ての人に公開することを目的として、国に寄贈することにした。

また、その行動には、ハンガリーの遺産相続が慣例的に男子間で分割することになっており、その影響で、伯爵自身が貧しい没落貴族として過ごした青年期の経験もあったため、蔵書の散逸を防ごうという狙いもあったという。

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図書館としてのスタート

セーチェーニ・フェレンツによる蔵書の寄贈をきっかけとして、ハンガリーは、1802年に「国立セーチェーニ図書館」を開館した。これが後のハンガリー国立博物館である。

膨大な図書の大部分は目録が完成しており、セーチェーニは細かい条件を挙げて、既にあった王立大学図書館とは全く別の図書館として機能させるように心を配ったようだ。

同時に寄贈された骨董類や貨幣コレクションなどは、完全な目録が完成するまでは非公開とすることや、目録作成や図書館の運営にセーチェーニ家が担当することなどが、その後の国立セーチェーニ図書館の整備や円滑な運営に結びついたと考えられている。

自然史博物館へ

国立セーチェーニ図書館設立の翌年には、セーチェーニ・フェレンツ伯爵の妻も個人的な鉱物コレクションを寄贈し、図書館には、自然史博物館としての役割も与えられることとなった。

夫妻の行動は、貴族たちにとって貴重なコレクションを守る方法の一つとして示される結果となり、この後貴族たちの貴重なコレクションの博物館への寄贈が続き、その所蔵品数を増やしていくことにつながった。

当時の貴族たちが、自身たちの財産を貴重なハンガリーの財産とも考え、いかにして相続制度や革命、他国からの侵略などから守るか頭を悩ませていた様子をうかがい知ることができる。

ハンガリー国立博物館としてのスタート

ハンガリー議会は、セーチェーニ図書館をハンガリー国立博物館として整備するための予算を計上し、1847年までに現在と同じ場所にネオクラシック様式の巨大な建物が建造された。

正式にハンガリー国立博物館としての名と形が整えられたと言える。

ハンガリー革命と博物館

しかし直後の1848年、ハンガリー王国はハプスブルク朝オーストリア帝国からの独立を目指す革命へと突入していく。

長く貴族たち特権階級中心の国家として存続してきたハンガリー王国で、改革の声を上げたのは、セーチェーニ・フェレンツの3男である「セーチェーニ・イシュトヴァーン」だった。

革命における大衆の要求である「一二か条」は、この博物館の前で朗読され、大衆の意識を高め、王国政府を新政府樹立へと動かした。ハンガリー人にとって、ハンガリー国立博物館が、民族主義の象徴的存在であったことが分かる。

革命後の博物館

革命を記念し、革命指導者「アラニ・ヤーノシュ」と「ペテーフィ・シャーンドル」の像が、建物正面の階段横に置かれているほか、ハンガリー上院議会もまた、この博物館内で開催されていた。

革命後も、民族意識を保つ重要な場所として認識されているのが分かる。

博物館の専門分離と提携

一方で、本来の博物館としては、その所蔵品の増加や広範囲化にともない、民族部門と自然史部門は、国立博物館から離れ、専門的な博物館として生まれ変わっていった。

それが、「国立セーチェーニ図書館」であり、「ハンガリー自然史博物館」、「ブタペスト民族博物館」である。

図書館内に併設されていた、各部門がそれぞれに独立した形となって、現在に至っている。

建築様式の見どころ

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1837年から10年にわたって建造された建物は、新古典主義建築で建てられている。建物の正面の姿は、まるでパンテノン神殿のような巨大な石柱が印象的だ。中に入ると、両側に翼棟を持ち、まっすぐ奥へとかまぼこ型の巨大な空間が作られている。

常設展示は7つのセクションに分けられ、展示室の多くは比較的小さくまとめられていて、目指す展示品へは部屋番号を目指して移動することで迷うことなく辿りつけるようになっている。

多くのヨーロッパの博物館同様、建物自体が芸術品であり、階段や天井に描かれた壁画、庭園などは全て一見の価値がある。

ハンガリー建国に関する展示

ハンガリー人にとってハンガリー建国の年は、ローマをはじめとした周辺各国の民族が入り混じっていたこの地を、ハンガリー人(マジャール人)が制服した896年とされている。

7つの部族がそれぞれの部族長によってまとめられ、さらにその中心となっていたのが、アルバード一族。アルバード家のイシュトヴァーンこそが、1000年のミレニアムにローマ法王から王冠を与えられた初代ハンガリー国王である。

博物館の最初の展示は、このアルバード朝時代、その後のオスマントルコによる侵略の時代、トランシルヴァニア公国の影響などが主となっている。ハンガリーの歴史のダイジェスト版として見知るのに最適だろう。

ハンガリーの複雑な政治体制

続いては、近現代におけるハンガリーの複雑で理解しにくい政治的な側面にスポットがあてられたコーナーとなる。

独立戦争から共産主義体制までの期間にハンガリーが経験したさまざまな政治や国家の体制を知ることができる。

古代ハンガリーを楽しむ

ハンガリーには、旧石器時代から人が暮らしていたことが分かっている。紀元前10~5世紀には、イリア人やケルト人が、その後にはローマ人が生活を営んでいたことが、数多くの遺跡によって判明している。

それらの遺跡の様子や遺物の展示もあり、ヨーロッパ各地で見られるのと同様のローマの影響力を感じることができる。

世界的宝石コレクション

中世時代から近世にいたるまでの、宝石や石の遺物に焦点を当てた展示もある。大きく目立つものはないが、それぞれに珍しく美しいものが並び、主に女性たちの視線を集めている。

后妃エリーザベトと死の衣装

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博物館内では、ひっそりとあまり目立たない存在ながら、日本人をはじめ一部の歴史に詳しい旅行者たちが何よりも先に見に行こうとするのが、后妃エリーザベトが殺害された時に着ていたとされる服の展示である。

后妃エリーザベトは、絶世の美女として知られ、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝の皇后となった。

しかし、自由きままな性質のエリーザベトは宮廷生活に馴染めず、皇后としての職務を放棄していたという。そんなエリーザベトの悲劇は、一人息子が謎の死を遂げたことだった。

旅行先のレマン湖のほとりで無政府主義者によって殺害されるその時まで、エリーザベトは喪服を着続けていた。

博物館に展示されているのは、その時エリーザベトが着ていた黒いジャケット。小さなガラスケースに入れられたその服の胸元には小さな穴が開いていて、鋭く尖らせたヤスリで殺害されたという状況を想像させる。

殺害された時、60歳だったというが、そのウエストサイズは50センチ。身長は170センチを超えていたにもかかわらず体重は50キロだったという。まさに、現代のモデル体型といったところか。

晩年のトレードマークとして、年齢とともに衰えた容貌を隠すための黒いベールや扇、日傘、そして喪服から伝わるエリーザベトの生涯は、伝説のように今もハンガリー人たちの間で語られている。

それというのも、宮廷のあるウィーンを嫌ったエリーザベトが好んで暮らしたのがハンガリーであり、生涯を通じて愛するハンガリーのために尽力したからだ。

初代国王イシュトヴァーンの戴冠式のマント

イシュトヴァーン国王から続く王室の宝物として有名なのが、「戴冠式のマント」と呼ばれる、真紅に金の縁取りと飾りが織り込まれ縫いこまれた外套である。

1030年頃に造られたと考えられていて、王妃と侍女による手作りであり、マントの背には王冠を戴いたイシュトヴァーン王のポートレイトが描かれている。初代国王であり、後に聖人とされたイシュトヴァーンの姿を現代に伝える唯一の絵だとされている。

マントは間違いなく純正品であると考えられているが、保管されているそのほかの宝物である、王冠(聖冠)、笏、宝珠、剣などは、その真偽のほどは明らかではないという。

また、マントは保存上の理由からガスが充填されたケースから出して移動することが困難であるため、博物館に置かれ続けているが、そのほかの宝物は、ハンガリー内閣府へと管理が移譲されているらしい。

ハンガリー自然史博物館の誕生

セーチェーニ・フェレンツ伯爵夫妻の寄贈品を基礎として、ハンガリー国立博物館とセーチェーニ図書館が開館したが、鉱物・動物学・生物学・植物学などの専門的な寄贈が相次ぎ、ハンガリー国立博物館の中で分離して別に、自然史博物館が作られた。

その後新たな展示場が必要となったことから、1994年、自然史博物館としてルドヴィカ学園内に移設されたのが、現在の「ハンガリー自然史博物館」である。

さらに改築が進められ展示スペースが増やされ、より多くの収蔵品が展示されるようになっている。

ブダペスト民族博物館

ハンガリー自然史博物館同様、ハンガリー国立博物館の付属施設である「民族館」として建造された。

ハンガリー国立博物館と比較して、よりハンガリー内部、生活密着な内容の展示となっているため、歴史よりももっと身近なところでハンガリーを感じたい人向け。

博物館の地底深くまで階段でおりることができ、そこにある洞窟や地下室では、王宮が建て始められた創建の時代から残っている部屋などを見学できる。

見学方法

入場料金は安めの設定になっている。また、写真やビデオの撮影は許可制であり、追加料金を払うことで許可証を受け取れば館内での撮影は可能となる。

展示の説明は主にハンガリー語、主要な展示には英語の説明文も加えられている。しかし、歴史に沿って分かりやすく並べられているため、説明文の内容を読み取ることができなくても、ハンガリーの歴史を大筋でつかむことは可能だろう。

その博物館は比較的空いているので、ゆったりと見学できるのが嬉しい。

最後に

日本からの観光客が多いとはいえないハンガリーだが、他のヨーロッパ各国同様、周辺国との諍いや文化交流を通して、華やかさと苦難とをあわせ持つさまざまな遺跡や建造物、そして遺物がある。

ブタペストやハンガリーの各地に点在するそれらを訪ねる前に、博物館でハンガリーという国の成り立ちの概要を掴んでおきたい。

それによって、旅に深みや味わいを加えることができるはずだ。

そこを訪れた人しか感じることのできない感動を、写真、動画、そして言葉で表現してみませんか? あなたの旅の話を聞かせてください。

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