ポーランドワルシャワ観光をしてみた。歴史背景と伝説

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Warsaw

歴史と誇りを住民の力で取り戻した街~ワルシャワ(Warsaw)/ポーランド・ワルシャワ

ワルシャワは、外部からの政治的・武力的な圧力に、住民が一丸となって戦ってきた歴史を持っている。

歴史の中で彼らが作り上げてきた街並みや建造物は破壊しつくされてしまったが、彼らのアイデンティティが崩壊することはかなった。その歴史・文化の「形」は守ることができなかったが、彼らのワルシャワ人としての「記憶」と「気概」は、それらの全てを現代に甦らせたのだ。

ワルシャワ誕生の伝説

昔々、川のほとりに「ワルス」と「サワ」の夫婦が暮らしていた。ある日のこと、その地の領主が狩りの途中で道に迷い、二人に一夜の宿を求めた。

見知らぬ客人を温かく迎えてもてなしたワルスとサワに感謝した領主は、「この地は今後ずっとワルスとサワの土地『ワルシャワ』である」と語ったのだという。

ワルシャワの歴史的誕生

伝説上のワルシャワが、歴史上にその名を表したのは13世紀のこと。当時、小さな漁村にすぎなかったワルシャワは、ポーランド王国の一部となって以降、急激に発展していく。

1596年には「ポーランド」の首都に、1611年には立憲君主制多民族連邦国家「ポーランド・リトアニア共和国」の首都となった。その後18世紀にかけては、「北のパリ」と呼ばれるほどの栄華を誇った

翻弄され、虐げられたワルシャワ

中世以降のワルシャワは、ナポレオン勢力の影響を受け、ポーランドも国としての独立性を失ってしまう。しかし、ワルシャワ住民の「ポーランド国家」への想いは熱く強く、1830年には最初のワルシャワ蜂起である「十一月蜂起」を起こす、しかし結果は大きく敗退してしまった。

ナポレオンに続きロシアの影響下でのポーランドは、2度目のワルシャワ蜂起である「一月蜂起」を起こし、一時的に王国を復活させポーランド人による政府も樹立したものの、やはりロシアに鎮圧されてしまった。

ロシアにかわりドイツ・オーストリアによって行われていた占領は、第一次世界大戦によって終り、1918年「ポーランド・リトアニア共和国」は独立を取り戻した。

しかし、ワルシャワの苦難はまだ続く。

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ドイツ軍とワルシャワ蜂起

WarsawUprising

1939年のナチス・ドイツのポーランド侵攻により、ワルシャワは再び占領されてしまう。しかし、政府は降伏せず、パリやロンドンに亡命政府を置いて抵抗活動を行った。

第二次世界大戦末期の1944年、ワルシャワは占領軍に対する一斉蜂起「ワルシャワ蜂起」を起こした。2か月にわたる戦いでは、20万人を超える犠牲者を出し、ドイツの圧倒的な武力の前に鎮圧されてしまった。

さらに、この時のドイツ軍はすでに敗戦の色を濃くしていたにも関わらず、ポーランド人を威圧する目的で、歴史あるポーランドにとって重要な建造物に狙いを定めて、ワルシャワの町を徹底的に破壊してしまった。

ソヴィエトの衛星国家としてのポーランド

その後、ソ連軍によってドイツ軍は排除されたが、ワルシャワが他国に占拠され続けていたことに変わりはなかった。

ソ連の衛星国家である「ポーランド人民共和国」が成立するも、ポーランドの亡命政府は相変わらずロンドンで抵抗活動を続けていた。

独立と主権の回復

1989年になって、ようやくポーランドは民主化され、ソ連の影響受けた「ポーランド人民共和国」から「ポーランド共和国」へと移行し、ワルシャワは改めて首都として定められた。

虐げられることで培われたワルシャワ魂

ポーランドでは、ワルシャワという場所が占領されても、決して心がくじけることがなかった。

次々に力で押さえつけてくる隣接国に対して、一丸となって時には「蜂起」し、時には亡命先で抵抗活動を続けていたのだ。

長期にわたって虐げられた時間は、ポーランド人に「ワルシャワ魂」ともいうべき、愛国精神を強く植えつける結果となった。

世界遺産「ワルシャワ歴史地区(Historic Centre of Warsaw)」

HistoricCentreofWarsaw

「ワルシャワ歴史地区」は、「王の道(トラクト・クルレフスキ)」、「中心市街地(シルドミェシチェ)」、「新市街(ノヴェ・ミャスト)」、「旧市街(スタレ・ミャスト)」の4地区に分けられる。

「王の道」は、ヴィラヌフ宮殿、ワジェンキ水上宮殿公園、新世界通り、王宮前広場をつなぐワルシャワ歴史地区の中心となる通りだ。

「中心市街地」は、18世紀以降に開発された最も新しい地区で、戦前からのオフィス街とユダヤ人街が大きな割合を占めている。「ワルシャワ・ゲットー」があったのもこの地区。

現在は、「ワルシャワ中央駅」、「文化科学宮殿」などの大型施設や高僧ビルが立ち並ぶエリアになっている。

「新市街地」は、15世紀に旧市街北の城壁を取り払って拡げられた地区。新市街広場にはキュリー夫人の博物館などがある。「新」とは言っても、現代的ではない。「新市街地」はあくまで中世の「旧市街地」と比べて「新しい」だけだ。

残る「旧市街」が、ワルシャワ観光の中心となる。

13世紀に建設され、20世紀に破壊され復元された「旧市街」

Oldcity

城壁で囲まれた城郭都市だった頃の姿を留めるのが「旧市街」だ。

赤、ピンク、黄色、オレンジなどの優しくカラフルな壁と赤い屋根を持つ街並みは、中世の街がそのまま残されているように見える。

しかしこの地区は、「ワルシャワ蜂起」をきっかけにドイツ軍によって一度は壊滅状態まで爆破されてしまった。では、今そこにある街はいったい?

そう、この中世の面影を持つ街は、全て現代になってから復元されたものなのだ。

戦時中に、建築家の学生らによって描き残されたスケッチの数々や設計図をもとに、バラバラに散乱したレンガや破片を集めて、できる限り元通りの場所で元通りの用途に使って再建したのだ。

また、この再建作業は専門家の指揮下、手弁当の住民たちの手で行われた。

ショパン観光

ChurchoftheHolyCross

「聖十字架教会」は、ショパンの心臓が埋葬されていることで有名な教会。建物はドイツ軍に破壊され、心臓は持ち去られたが、異国の地で死んだショパンが「心臓はワルシャワに」と言い遺した通り、今は復元された教会に納められている。

ショパンはワルシャワ郊外生まれのワルシャワ育ち。市内には生家、サロン、博物館などがあり、音楽ファンを集めている。

ショパン生誕200年を記念した音楽ベンチは、市内15か所に設置されていて、座ってボタンを押すとショパンの名作が流れてくる仕掛けになっている。

キュリー夫人観光

キュリー夫人もワルシャワの出身。彼女の生家はキュリー博物館として開館している。

当時の実験道具などが展示されていて、この場所で放射能元素を発見? とドキドキする。

ワルシャワの象徴、王宮の復元

旧王宮は6世紀に建造が始まり、時代と共に増改築が繰り返されてきた。18世紀には、絢爛豪華な内装も施され、ワルシャワの誇りであり歴史そのものであった。

しかし、ナチス・ドイツによる攻撃で灰塵となってしまった。長く廃棄されたままだった旧王宮は、1970年に入ってようやく復元が始まった。

現在王宮広場に立つ威風堂々たる王宮は、全て20世紀に破壊され、20世紀に復元されたもの。建物の復元完成により、疎開させられていた宝物や美術品が運び込まれ、現在は博物館として開放されている。

ワルシャワの歴史を伝える象徴的建造物といえる。

最後に

ワルシャワは長く厳しい歴史の中で、常にレジスタンス活動を続けてきた。

その中で培われた愛国精神は、彼らを一丸となって街の復元へ向かわせ、表向きは失われてしまった歴史や誇りを取り戻させた。

中世の街並みを「取り戻した人々の精神」が世界遺産登録の決めてとなったといわれるワルシャワ。

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