ドゥブロヴニクとその旧市街地を歩いたら歴史的背景が見えてきた

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市民によって築かれ守られてきた都市国家~ドゥブロヴニクとその旧市街地

クロアチアの南端・アドリア海沿岸の都市「ドゥブロヴニク」は、中世から海洋貿易で得た財力によって発展してきた。

また、独特の専守防衛精神にのっとった外交政治を行うことで、長く厳しい歴史を通じて、独立した都市国家の地位を守り続けてきた稀有な都市でもある。

ドゥブロヴニクの中心である旧市街地は、度重なる自然災害や戦禍から、幾度も復活を果たしてきた。1979年には世界遺産に登録され、多くの観光客が訪れているが、途中1991年から1998年は紛争に巻き込まれ、危機遺産として登録されていたこともある。

現在のドゥブロヴニクは、受けた傷跡をほぼ癒し終え、千年以上続いてきた都市生活を、再び次の千年に向けて続けているところだ。

ドゥブロヴニクの持つ地理的特徴

ドゥブロヴニクは、周辺地域一体を含むドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都で、ほかのクロアチア国内の都市とは陸でつながっていない「飛び地」である。

クロアチア本土との間には、ボスニア・ヘルツェゴビナの唯一海に面した街である「ネウム」が存在している。ネウムは、住民の大半がクロアチア人でありながら、歴史的に紛争の多いこの地域において、緩衝地帯としての役割を果たすために引かれた国境線の影響を、今日も引き継いでいる街だ。

ドゥブロヴニクは、海に面して岩壁に囲まれた城塞的地形と天然の良港を持ち、地中海沿岸のヴェネチアやジェノヴァなどと並び立つ、海洋貿易都市だった。

後ろに控えるボスニアやセルビアの産物の積み出しを行う港として、また、地中海沿岸国とバルカン内陸の国々の海洋貿易の中継地として重要なポイントであるため、権力争いの戦禍に巻き込まれることも多かったが、周辺に興る国々とは、覇権を争うことなく利権を譲ることで経済都市としての存在を守り続けた。

要塞都市としての旧市街地

Dubrovnik432

海洋貿易の要衝として繁栄したドゥブロヴニクの旧市街地は、周囲2キロメートルほどの小さな町だ。

レンガや植木鉢と同じテラコッタのオレンジ色の屋根が波打ち、大理石を使って舗装された道路に沿って、文化や公共福祉の中心となる修道院や聖堂などの建造物たちが立ち並んでいる。

この地の「自由と自治」を守り抜くため、14~15世紀に作られた、旧市街地を囲む堅牢な城壁は、幅が3~6メートル、高さは25メートルにも及ぶ。城壁には4つの門が作られ、現在も旧市街への入り口となっている。

現在の城壁の上は、遊歩道として、1時間ほどで旧市街地周囲をぐるりと一回りできるようになっていて、もっとも人気のある観光スポットの一つだ。海に面した天然の岩壁上にさらに積み上げられた石壁は、街が海からの脅威に対して厳重に備えていたことを示している。

ドゥブロヴニクは、自ら武力に訴えることがないかわり、交易によって得た資金を、守りのための設備に投資した。その外交戦法は、多くの歴史的場面で街を無傷で守ってきたが、地震という自然災害と内戦によって、壊滅的ともいえるほどの打撃を受ける。

しかし、自分たちの手で街を守るという精神は、街の復旧にも生かされ、ドゥブロヴニクは、何度となく復元されてきた。そのため、復元用の年代別建築様式地図などの資料が揃っていて、街の路地の隅々の情報が事細かに記されているという。

最先端都市国家ラグーサ共和国

まだヴェネチアの影響下にあった1272年、ドゥブロヴニクは自治権を得、独自の法制度を整えていく。

その頃に興ったラグーサ共和国は、住民が貴族・市民・職人の3階級に区別され、貴族が権力を握っていた。しかし、市民福祉を中心とした行政が整備された、時代を先取りする政治体制がとられていたという。

市民福祉の具体例としては、医療制度の確立、薬局の開業、孤児院や高齢者施設の設立などがある。また公益事業として、水道施設が整えられ、その上下水システムは20キロメートルにも及んだ。街の噴水からは真水が常に噴き出していたという。

また、同時期の各都市との大きな違いは、奴隷制度の廃止をいち早く行ったことにある。自由都市として胸を張れる重要なポイントだ。

ドゥブロヴニクが抱える民族的・政治的な背景とハードな歴史

紀元前から港として機能していたとの説もあるこの地域は、沿岸を行き来する船たちの停泊港として多くの民族が出入りし、常に複数の民族の共存によって繁栄してきた。

立地の良さから、各時代の権力者たちの興味をひく存在だったドゥブロヴニクは、東ゴート王国・ビザンティン帝国・十字軍などの影響を受けた後、ヴェネチアの主権下に入った。

1358年には、ヴェネチアの影響から抜け出し、当時台頭していたハンガリー王国との隷属関係を解消し、ラグーサ共和国として独立。その後19世紀初頭まで存続したラグーサ共和国は、最先端の法体系・政治・環境システムを築いた自由国として繁栄を謳歌した。

ラテン(イタリア)系住民の多かったこの地域に、スラブ系のクロアチア人が周辺地域から移住してくるようになったのは17世紀以降のこと。ラグーサ共和国は、民族的にも文化的にも、イタリア・ルネサンスとスラブ文明の混じり合った独特の世界を作り出していった。

15・16世紀に全盛期を迎えたラグーサ共和国だったが、1667年の大地震によって、壊滅的なダメージを負ったのをきっかけに、徐々に衰退しはじめる

オスマン帝国の台頭では、緊迫するヴェネチアとオスマンの戦いの火の粉を払うために、クロアチア本土に所有していた領地の一部(現在のネウム)をオスマン帝国へと売り渡し、外交的手腕によって都市を守るスタイルを取った。

このように、周辺国の争いに翻弄されるのを防ぐための、専守防衛に徹する非武装化路線は、ラグーサ共和国独自の外交作戦として知られている。

ラグーサ共和国は、1806年のナポレオンの軍隊による包囲によってその歴史を終える。その後のこの地域は、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリーなどに代わる代わる支配され、その名を変えながらも、都市国家としての地位は守り続けていた。

それは、続く世界大戦時にも、変わることがなかった。

ドゥブロヴニクの大きな歴史的転換期は、ユーゴスラビア崩壊への幕開けとなった1991年に起きた砲撃によって始まる。この砲撃では、旧市街地は非常に大きな損害をうけ、多くの市民が犠牲となった。

ユーゴスラビア崩壊が与えた甚大なる被害

クロアチアの独立を求めるユーゴスラビアとの紛争は長期化し、街は内戦の影響で甚大な被害を受けた。

ドゥブロヴニクは住民投票を行い、94%がクロアチアに留まることを支持。しかし、クロアチアの独立を認めないセルビア・モンテネグロによる砲撃を受け、世界遺産「ドゥブロヴニク旧市街」は破壊されてしまう。

外敵からの攻撃に対して、専守防衛に徹して街を守ってきたドゥブロヴニクだが、内紛には対抗するすべがなかったということか。

ドゥブロヴニク旧市街の博物館では、この時に受けた戦禍を記録した写真などが多数展示されていて、訪れる人々に、自分たちの街への深い愛情と悲しみや怒りを伝えている。

都市国家としてのドゥブロヴニクが持つ誇りと復旧活動

ドゥブロヴニク市民は、この小都市の自由と独立を自分たちの力で守り続けていくという精神を受け継いできた。その精神を現実的に支える資料も多く残され、地震や戦禍によって破壊された建物、住宅、路地までもが、それぞれが建築された時代や様式にそって再現できるようになっている。

その作業が、新たなビルを建てることに比べて非常に困難であることは、その材料を得ることだけを考えても想像できる。

ユーゴスラビア紛争によって壊滅的な打撃をこうむった後、危機遺産登録されたドゥブロヴニクでは、市民に加えて世界から集まったボランティアたちが、残骸の中から、建築材料を拾い出すという作業を行ったという。

現在も、街のあちらこちらで、復旧作業は地道に続けられていて、その過程が、建物にかけられた掲示板によって説明されている。街の修復活動が今後の保存する活動に結び付き、さらには街の観光材料の一つとしての役割をも担っているようだ。

ドゥブロヴニクを表現する言葉たち

ドゥブロヴニクは、多くの書物などで、「アドリア海の真珠」と表現されている。それだけの美しさと貴重さを持ち合わせた場所だといえる。

さらに、この地を訪れた劇作家ジョージ・バーナード・ショーが、「ドゥブロヴニクを見ずして、天国を語ることなかれ」と語ったのは有名なエピソードだ。

これらは、主にドゥブロヴニクの美しさをたたえたものだが、また別の意味合いでドゥブロヴニクを称える言葉も存在する。それは、旧市街へ入る門に書かれた「自由はお金ではあがなえない」との言葉である。

自由都市国家としての尊厳を持ち続けた街と、自由と自治を守り続けたその市民たちの気概が伝わってくる。

見どころ

ドゥブロヴニク一番の観光ポイントといえばやはり、城壁だろう。

1周約2キロメートルの城壁の上を、ところどころにある門やショップで休憩しながらぐるりと歩いて回るという、街を360度の方角から眺められる散策コースがおすすめ。

もちろん、真っ青な空と海、ポツンポツンと浮かぶ白い船や緑の島、それらを飽きるまで眺めることもできる。

城壁からも、街が背負うスルジ山からも眺められる赤いレンガ屋根が目印の旧市街地は、「魔女の宅急便」や「紅の豚」の舞台ともいわれる場所で、アニメファンも多く訪れている。

現在目にできるこれらの街並みは、千年以上前の姿とほとんど変わっていない。しかし、実際にはそのほとんどが過去数十年内に修復されたものであることは、驚きの事実としかいいようがない。

フランシスコ修道院は、落ち着いた雰囲気のルネサンス様式の中庭を持ち、ドゥブロヴニク市民の心のよりどころだ。修道院内には創業1317年という現存する薬局ではヨーロッパで3番目の古さを誇る薬局があり、現在も訪れる市民に薬や化粧品を販売している。

フランシスコ修道院、スポンザ宮殿、ドミニカ修道院、司教宮殿、聖イヴァン砦などの名所は、博物館や美術館として公開されていて、ドゥブロヴニクの繁栄を伝える財宝や歴史を見知ることができる。

沖に浮かぶロクルム島はヌーディストビーチがあることで有名。島周囲では海水浴、内部では塩水湖浴を楽しめるので、ナチュラリストでなければ水着を忘れずに。クジャクが我が物顔でかっ歩している散策路をぶらつくのも楽しい。

アクセス

首都のザグレブからは空路で1時間弱。ドゥブロヴニクに近づくと、オレンジの家並みと真っ青な海のコントラストが見えてきて、思わず飛行機の小さな窓にはりついてしまう。空港から市街地まではバスで30分ほどだ。

ドゥブロヴニクとクロアチアの各都市間は、長距離バスで結ばれている。バスターミナルは、ドゥブロヴニク郊外のグルージュにあり、市街地までは路線バスを使用できる。

旧市街地内は許可された自動車以外は進入できないため、徒歩観光となる。

お土産と食事

おすすめのお土産はフランススコ修道院の薬局で売られている化粧品。ハーブを使ったものが人気。

食事はシーフード。イタリア料理に近く、ホテルでも街のレストランでも新鮮な食材を使った美味しさを味わえる。

最後に

ドゥブロヴニク旧市街地は、偶然や必然ではなく、そこで暮らす住民たちのたゆまない努力によって保存されてきた「世界遺産」都市である。

自由や自治を、与えられるものとして享受するのではなく、自ら作り出し守り続けてきたという誇りが、街とそこで暮らす人々をさらに魅力的にみせている。

しかし一方で、民族紛争という自身に内在する問題によって受けた壊滅的な損害の後が、今も痛々しく残っている。

個々の住民たちの暮らしが、民族や国家によって踏みにじられる悲しみと、何度でもそこから立ち直る強さの両方を感じ取ることのできる街だ。

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