Cesky Krumlov2

古城の街~チェスキー・クルムロフ歴史地区を歩いてみた

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Cesky Krumlov2

Cesky Krumlov

目覚めた眠れる森の美女、古き良き街並みと古城の街~チェスキー・クルムロフ歴史地区/チェコ・南ボヘミア州

ドイツとオーストリアの影響を色濃く残す、チェコ南部の街「チェスキー・クルムロフ」。「チェスキー」は、チェコ語で「ボヘミアの」、「クルムロフ」は、ドイツ語で「川の曲がった部分の湿地帯」を意味する言葉を語源として持っている。

チェコとドイツ両方の呼び名を冠しているところに、この街の持つ複雑な歴史を感じることができる。また、チェスキー・クルムロフと呼ばれるようになったのは、20世紀に入ってからのことであり、それ以前はドイツ語の「クルマウ」と呼ばれていた。

モルダウ川とクルムロフ城を中心としたこの街には、14世紀以降、統治者や時代の変遷とともに変化しながら形成されてきた町並みが遺されている。

1992年には、「チェスキー・クルムロフ歴史地区」として世界遺産文化遺産にも登録され、ドイツやオーストリアなどのヨーロッパやアジアからの観光客が多く訪れる観光都市となっている。

中世ボヘミア王国時代に繁栄した街

チェスキー・クルムロフでは、紀元前4000年という古さの石器や青銅器時代の磁器なども見つかっている。豊かな森に囲まれており、大らかに流れる川があるこの地が、古くから人の暮らす地であったことが分かる。

城と城下町は、13世紀後半にチェコの有力貴族ヴィーテクによって、森が開かれて建造されていった。最初の城はゴシック建築の小さなものだったという。森の中の小さな街が豊かに発展した影には、山で産出される銀と木材を、モルダウ川を使用して交易した結果だったようだ。

1253年の文書に初めて現れるこの地は、ドイツ語で「曲がりくねった川のほとりの未開墾湿地」を意味する「Chrumbenowe」と記載されているという。

街は、14世紀から300年に及ぶローゼンブルク家による長い統治の間に、手工業や交易によって繁栄し、ルネサンス様式を取りいれた鮮やかな街へと変わっていった。

城主の移り変わりと街への影響

17世紀には、ローゼンブルク家の財政難から、その統治から外れ、オーストリア・バイエルン・スウェーデン軍などに占領され、街は経済的困難な状況に追い込まれていった。さらには、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世へ、エッゲンベルク家へと統治者が変遷していった。

エッゲンベルク家は、この地の文化・行政・経済の発展を支え、街や城には、ゴシック、ルネサンスの様式に加えてバロック様式の建造物も増えていき、街はますます華やかさを増していった。

さらに、エッゲンベルク家の断絶に伴い、シュヴァルツェンベルク家が統治者となると、城は拡張され、城内にバロック劇場を持つチェコでも指折りの城となった。

こうして、街はゴシック・ルネサンス・バロック・ロココなどの様式が融和した、独特の趣を持つことになった。

また、民族的には、地理的な条件からドイツ系が強い勢力を持つことが多かった。しかし、19世紀初頭まで、被支配階級チェコ人と支配階級ドイツ人の間には、生まれつきの民族ヒエラルキーが確固として存在していたため、自然で友好的な共存が行われていたという。

産業革命に置いてけぼりされた街

この地の発展は、あくまで手工業や産出特産物の交易によるものが大きかった。そのため、産業革命の時代に入り、都市部が川を使用した交易以外の手段である「鉄道」を使って発展していく中、森と川に囲まれた地理的不利さから、主要な鉄道網から外れてしまい、取り残される結果となったのだ。

街は有力な指導者にも恵まれず、工業発展することなく、静かに昔ながらの生活を続けていった。

しかし、これこそが、現在まで古い町並みが残された大きな要因である。

第一次・第二次世界大戦とナショナリズムの影響

18世紀後半に入ると、ヨーロッパを駆け巡った民族主義の風の影響を受けるようになる。その第一陣が、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されたことにある。帝国全土で激しくなる民族主義の波は、この小さな都市でも、ドイツ系住民によるチェコ系住民の排斥行動へとつながっていった。両者の共存社会は崩れ、公共施設での分離が行われた。

第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、一転チェコ領となり、正式に街の名も「チェスキー・クルムロフ」と定められ、古くからの呼び名である「クルマウ」は、古い地図や文献で見かけるものとなっていった。

第一次世界大戦後から第二次世界大戦が勃発するまでの期間、急に少数民族と定められたドイツ系住民の不満が高まりを見せていた。

そこへ、ナチス・ドイツがつけ込んだ形で、強引に併合を行い、1938年のミュンヘン会談では、イギリス・フランス政府により、チェスキー・クルムロフはドイツ国籍を持つ住民のものと決定された。

この時期、ドイツ人兵士たちの多くがこの地に駐屯し、独特の街並みや建造物の多くを破壊してしまった。

戦後も抱え続けた民族問題

19世紀初頭まで、被支配階級チェコ人と支配階級ドイツ人の間では、友好的な共存が行われていたが、19世紀半ば、民族主義の高まりから両民族の分離政策が進んでいくこととなった。

その民族間の亀裂は長く、現在もチェスキー・クルムロフに傷痕を残している。

チェスキー・クルムロフは、ドイツとチェコの間で奪い合われ、民族主義によって人の心まで翻弄された。その結果、一人一人の心の中にも深く激しい差別的な思想が染みついてしまった。

第二次世界大戦後のチェコのドイツ系住民への対応

第二次世界大戦後、敗戦国ドイツはこの地を去り、チェコ・スロバキアへと復帰することとなったチェスキー・クルムロフ。しかし、戦争は終わっても、2度の大戦を通して培われてしまった、民族間の亀裂は埋まらず、チェコ人としての独立を手にした政府は、大統領令を発令し、ドイツ系住民の市民権をはく奪、私有財産を没収した上で、彼らにとっても故郷であった街から追放してしまった。

後の大統領は、6年間にも及んだ長いナチス・ドイツの支配に影響を受けたことを認め、「(民族主義という名の)病原菌」に感染して、ドイツ系住民の強制排除を行ったとの発言もしている。

実際に、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによる過酷な支配を経験していたチェコ系住民たちは、ドイツ系住民の追放の際に、非人道的な措置を取った面があったとの証言もあるほどだ。

戦後の街が荒廃し続けた原因

長い戦争を終え、既に荒廃しきっていた街がさらに荒廃の度合いを進めた原因には、住民の多くを占めていたドイツ系住民がいなくなったことが大きく影響している。街の主要な政治・経済に深く結びついていたドイツ系住民たちが突然いなくなり、街には無人化した家や店が立ち並ぶばかり。街の荒廃が進むのは当然だったのだ。

その空いた住民枠へとはめ込まれたのが、ロマ族だった。ボヘミア地区を広く移動して暮らしていたロマ族の定住化を進めたが、この時チェスキー・クルムロフに定住したロマ族のほとんどがスロバキア東部からの移民だったという。古くからチェスキー・クルムロフ一帯で暮らしていたロマ族は、ドイツ人の民族政策の犠牲となってしまっていたからだ。

街を形成していた住民の大半を失ったところへ、新たに流入した民族は他地域からの移民だったのだ。街の荒廃がさらに進んでいったことも納得がいく。

チェスキー・クルムロフの荒廃の根となるもの

現在のチェスキー・クルムロフは、復元・改修され、古き良き時代の姿を取り戻している。

しかし、街の発展はすでに、産業革命の波への乗り遅れた段階で始まっていたとも考えられている。街は、急速に工業化が進む近代化から弾かれ、緩やかにではあるが、活気を失っていっていた。

さらに、大戦中のナチス・ドイツによる占領によって、チェコ系の民族的な建造物や文化が破壊されてしまったことも大きな原因である。

また、1948年以降、共産主義化が進み、街並みを形成する伝統的な外観の建造物や城郭などが「封建時代の遺構」として否定され、顧みられなかった。戦争の傷跡も痛々しいままに放置されていたことは、忘れることができない。

そこへ、最後のパンチとしてくらったのが、街の過半数以上を占めていたドイツ系住民の追放による住民減少だったのだ。

観光地としてのチェスキー・クルムロフ

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1989年のビロード革命で、無血で民主化革命が遂げられると、街の観光資源となりうる景観に歴史的な価値を認めるようになり、急速に修復・復元作業が進められていった。その様子を評して「眠れる森の美女」の目覚めとの言葉が与えられている。

現在の街並みのほとんどがボヘミア時代からの姿を残しているが、実はまた、そのほとんどが修復によって生まれ変わった新しい姿でもあるのだ。

世界遺産として登録されてからは、チェコ国内、ドイツ・オーストリアなどからの観光客も増え、街は観光都市として発展している。

街の見どころ「クルムロフ城」の成り立ち

Krumlov Castle

Krumlov Castle2

チェスキー・クルムロフを代表する見どころは「クルムロフ城」だろう。

城とは呼ばれているが、チェコでの指折りの巨大さで知られていて、一つの都市といっても過言ではない規模となっている。

城内には、病院・造幣局・酪農場などが含まれている。

城内は自由に出入りできるが、塔や内部の美術館などとガイドツアーはチケットが必要であり、また季節によっては閉鎖されていることもあるので、出かける前の調査は必須だ。

城内見学は個人では基本的に許可されず、ガイドツアーに参加することになる。日本語対応は現在のところはなく、英語かドイツ語・チェコ語となる。

城の周囲には深い堀があり、橋を渡って入場することになる。その堀割部分には熊が放し飼いされている。彼らは16世紀から続く、クルムロフ城の番人であり、人気者でもある。

城の塔は、13世紀に建てられたものだが、その後の統治者たちによって改修され、壁面は豪華に装飾が施されている。160段はあるといわれる階段を上りきれば、オレンジや赤の煉瓦でできた三角屋根と森と川を見渡すことができる。

クルムロフ城の見どころ

Trompe l'oeil

この城は「だまし絵」の城とも呼ばれるほど、壁面にさまざまな工夫を凝らした絵が描かれている。美しいフレスコ画も多く残されており、時代ごと、統治者ごとの好みの変遷を目にすることができる。

しかし、面白いのは、建造物の壁に描かれたタイル風・レンガ風の絵だ。実際には漆喰で塗られている壁を、煉瓦を積み上げたかのような絵を描いて装飾しているのだ。ところどころに見られるので、騙されずに見つけ出したい。

ギャラリーは地下洞窟にあり、煉瓦と土と砂でできた薄暗い洞窟の中に、世界各地から集められた美術品が展示されている。

クルムロフ城一番の見どころは「バロック劇場」だろう。

1766年当時の最新技術を導入した劇場は、その舞台装置の動力が人間の手であるとはいえ、その基本形は現代の劇場で使用されているスタイルと変わらないほどの素晴らしさ。当時から使われてきた、大道具・小道具・衣装も残されている。

そのほかの見どころ

クルムロフ城に次ぐ観光の目玉であり、15世紀のフレスコ画が見ものの、聖ヴィトゥス教会は、同じ街の中にある。

ズラター・コルナ修道院は、ボヘミア地域でも最も古い修道院の一つ。クルムロフからは10キロの距離。また、12世紀建造のフルボカー城も、30キロの場所にあり、チェスキー・クルムロフに数日滞在するなら足を伸ばしたい。

街から日帰りのツアーも出ている。

夭折の画家「エゴン・シーレ」ゆかりの地にある「シーレ美術館」

Schiele Museum

体がねじまがったようなポーズを取る人物画や、死や性を題材とする過激な画を描いた「エゴン・シーレ」は、クリムトやゴッホの影響を受けた表現主義の画家である。わずか28歳で夭折してしまったが、多くの作品を残している。

それらの作品は時代背景もあり、退廃的芸術・わいせつ物として扱われることもあったという。モデルたちとの奔放な交際を続けるシーレは、実母の故郷であるチェスキー・クルムロフでも、歓迎されなかったが、現在はゆかりの地であることから美術館が建てられている。

5弁のバラの祭典

The Five-Petalled Rose Festival

6月の夏至の日は、ヨーロッパ文化の中で重要な意味を持つ。短い夏の始まりであり、熱い恋の季節の始まりでもある。

チェスキー・クルムロフでも、「5弁のバラの祭典(The Five-Petalled Rose Festival)」と名付けられたイベントが開催される。

これは、旧領主であるローゼンベルク家の紋章である5弁のバラにちなんだ祭り。街中がローゼンベルク家の統治時代にタイムスリップし、さまざまな扮装の住民たちが歩行者天国でお祭り騒ぎを楽しむというもの。

街角からは音楽が聞こえ、そこここで踊る人がいて、中世の街に迷い込んだような気分を味わえる。祭りの期間中に滞在できれば、ぜひ衣装に工夫して参加したい。

ビールとポテト

Beer and potato

チェコは知る人ぞ知るビールの産地。どのレストランでも、様々な地ビールを楽しめる。ソフトドリンクよりも安価な黒ビールを堪能しよう。

また、メニューに英語表示がないことが多いが、日本人の味覚的に、あまり外れがないのもこの街の食事の特徴。肉・魚・ポテトなど、焼き方、味付けまで、どこか懐かしいような、そしてビールと食欲をそそるものばかりだ。

また、街角で売られている軽食類も、ボリュームがあるので、街歩きに忙しい時には、道端や公園でかじりついて済ませるという手もある。

そぞろ歩きとトイレ事情

街は小ぶりで、数時間もあれば、主要なポイントは見て回ることができる。しかし、街そのものが見どころであるチェスキー・クルムロフでは、目的を持たずにそぞろ歩きをするのが楽しい。

個人の住宅もかわいい、アンティークショップもかわいい。店の壁にぶら下がる鉄製の看板も魅力的なオブジェとなっている。

うろうろとしている間に、写真撮影スポットは盛りだくさん。ウィンドーショッピングも楽しい。

ただし、トイレが少ないので、見つけたら入っておくくらいの意気込みが必要だろう。トイレは有料のものも多いが使用料はわずか。

どこに泊まる?

繁忙期には小さな街のホテルのほとんどが満室となる人気ぶり。ツアーなどでは、街中やバス・電車の乗り場近くにあるホテルがセットになっていることが多い。

個人旅行ならば、選択の幅は大きく広がり、超高級ホテルからこじんまりしたプチホテル。さらには、家族経営のペンション・アパートタイプやドミトリーなどまであり、予算に応じて目移りするほどだ。

しかし、夏場を中心に宿の争奪戦は激しい。また、小さな宿はネットや電話で予約を入れていても、当日訪ねると満室ということもある。英語の通じない宿も多く、ドイツ語かチェコ語ができないと、交渉も難しい。

しかし、ほとんどの宿で、言葉の壁を越えた温かい歓迎を受けることが多く、泊まるところがなくて野宿といった事態に陥ることはまずない。

プラハから日帰りで

Krumau

旅行者の多くは、プラハからバスか電車で訪れることが多い。バスも電車も決して多くはなく、乗り継ぎも必ずしもスムーズではない。時間の余裕がある人、チェスキー・クルムロフで宿泊する人でなければ、個人での移動はあまりおすすめできない。

時間が限られている場合には、プラハからのバスツアーに乗ると、クルムロフ城のガイドツアーや食事と往復のバスがセットになっていて、ムダの時間を省くことができる。

最後に

中世の街並みを堪能できる世界遺産は、ヨーロッパ各地に何か所もあるが、素朴さではこの街がおすすめだ。

荒廃していた時期が長いこと、またその理由に民族問題が絡んでいることなどを知って観光すると、美しく整えられた街並みにも、また違った感慨を持つことができそうだ。

そこを訪れた人しか感じることのできない感動を、写真、動画、そして言葉で表現してみませんか? あなたの旅の話を聞かせてください。

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