»旅を職業にしたい人募集中!旅を人生の中心にしてよりハッピーな生き方に!「詳細はこちら」
ディジュリドゥという楽器をご存知でしょうか? オーストラリアの先住民アボリジニが使用する木製の管楽器です。アボリジニたちの間でも、儀式の時などしか演奏する機会がなく、演者の数も非常に限られているというディジュリドゥの奏者が日本にもいます。それがGOMA。
彼は、1994年にディジュリドゥと出会い、その4年後には、ディジュリドゥの生地であるオーストラリアで開催されたディジュリドゥの大会で、アボリジニ奏者たちをおさえて準優勝を果たしました。
GOMAが見つけてGOMAが伝道してくれたGOMAのディジュリドゥ音楽の魅力。そしてGOMAを襲った悲劇。そこで起きた奇跡と新しい才能の発芽。それらをまとめてご紹介します。
GOMAの作品
まずGOMAの作品を少しだけ紹介いたします。
※写真は公式サイトやファンサイトさんからお借りしています。引用元は各写真下部記載
https://www.barks.jp/
https://eyescream.jp/
https://clubberia.com/ja/
https://twitter.com/
https://www.barks.jp/
https://www.amazon.co.jp/
GOMA Official Web (http://gomaweb.net/)
GOMAの経歴
1973年大阪生まれ。はじめ、彼のアーティストとしての才能はダンスに向けられていました。
1990年代前半にはHIP HOPダンサーとして活躍。その後はディジュリドゥ奏者として、その後画家として、映像パフォーマーとして、さらには、脳科学の世界にまで足を踏み入れていき、今のGOMAがあります。
ダンサーのGOMA
小学生の時に風見慎吾のブレイクダンスを見て影響を受けたのがもっとも最初のダンスとのつながりだというGOMA。友人の家族に本格的にダンスをしている人がいたそうで、その人の影響を受けてダンスの面白さにハマっていきました。
どうやら当時はストリート系ダンサーに近かった様子で、イメージとしては、担いだラジカセからガンガン音楽をかけている街角、数人の仲間がその周りで踊っているというスタイル。音楽のジャンルもダンスのジャンルも決まっていたわけではなく、耳にした音楽、目にしたダンスをどんどん取り入れていきます。
その結果、ダンスのための音探しが、音作りへと発展し、世のブレイクダンス流行りにも乗り、有名チームのダンスを見に行ったり、自分のチームを作って大会にでたりと発展していきます。
GOMAは、ダンス大会、テレビ番組、東京遠征など、かなり本格的に、そして真剣にダンスにのめり込んでいました。そんな中、友人に誘われたというダンスのワークショップでディジュリドゥに出会ったそうです。
急激にディジュリドゥへとのめり込んでいったGOMAは、関西を中心としたクラブやライブハウスでディジュリドゥ奏者として活動し始めます。
社会を捨て私たちと共に「旅人」になりませんか?
月収38万円~保障。学歴・性別・年齢・経験 問いません。旅が好きな人、旅人になりたい人を募集しています。
ディジュリドゥとの出会いとディジュリドゥ修行
もともとダンスを通じて音楽界ともつながりのあったGOMA。表現の中心的な方法をダンスからディジュリドゥ演奏に変えても、相変わらずクラブやライブハウス、そしてストリートなどで活動を続けていました。
ただ、今現在でさえディジュリドゥという楽器の存在を知る日本人が少ないことからわかるように、いくら熱心に演奏しても、ディジュリドゥに関わるあらゆる情報が当時の日本には非常に少なかったのです。4年にわたってディジュリドゥとがっつりと取り組んだGOMAは、より高技術、多くの仲間を求めて、ディジュリドゥの生地で聖地であるオーストラリアへと旅立ちます。
現地のディジュリドゥショップで働いて滞在費を稼ぎつつ修行を始めたGOMA。ディジュリドゥの知識を得て、その演奏スタイルを変えていきます。道端で演奏するその姿は、誰かが聞いてくれること、踊ってくれることを必ずしも目的としたものではありません。ただ、演奏して音を生み出すことに念をおいていました。例えるなら、尺八を演奏する虚無僧のようでしょうか。
それでも、多くの人が足を止め、音に聞き入り、中には体を揺すって踊る人も、演奏にいろいろな形で混ざる人もいたことでしょう。
この頃から、各地で開催されるディジュリドゥの大会に出場し始めます。小規模な大会での優勝経験を積み、最終的にGOMAがディジュリドゥ奏者として認められるきっかけとなったのが、バルンガディジュリドゥ大会でした。
これは、ディジュリドゥの生みの親であるアボリジニの聖地アーネムランドで開催される由緒ある大会で、参加者の大半はアボリジニ。入賞するのもアボリジニがほとんどでした。そこで、ノンアボリジニとして初受賞したのがGOMAなのです。
この事実は、ディジュリドゥ奏者の世界だけでなく、アボリジニの世界にとっても大きすぎる事件として扱われ、GOMAが準優勝をしたことで、その後大会内では、アボリジニとノンアボリジニのディジュリドゥ審査は別枠になったそうです。
ディジュリドゥアーティスト「GOMA」の活動内容
さまざまな意味で、ディジュリドゥ奏者としての名を挙げたGOMA。オーストラリア修行に区切りをつけ、徐々に日本へと拠点を移しつつ、一方ではより広く世界へと活動範囲を広げていきます。
日本では、GOMA本人が主催するイベントやツアーで演奏し、FUJIROCK FESTIVALに出演。自身の音楽レーベルも設立して、アルバムの制作にも弾みをつけます。
GOMAのディジュリドゥは、アボリジニたちが儀式で演奏するものとも、オーストラリア各地で開催される大会で演奏されるものとも、異なっています。
ディジュリドゥの音は、良く言えばシンプル、悪く言えば単調です。音程や音の高低などは、ほかの管楽器と比較して非常に限定された範囲しか発音表現することができません。
そんな単調なはずのディジュリドゥに生き生きとした命を吹き込んだのがGOMAなのです。彼は、ディジュリドゥで、トランスからブレイクまで、またレゲエからイージーロックも演奏してしまいます。音楽としても、ディジュリドゥとしても、オリジナリティにほとばしるその音は、ディジュリドゥを知る人にも知らない人にも、広く受け入れられ、支持されるようになっていきました。
ディジュリドゥとダンスの融合
GOMAは、ディジュリドゥ奏者として活動していく中で、ディジュリドゥという楽器を知ってもらうこと、その生の音を楽しんでもらうことに挑戦していきます、そして、ディジュリドゥとそのほかの楽器やそのほかの表現方法とのミックスにチャレンジしていきます。
最初のミックスはダンス。HIP HOPダンサーだったGOMAとすれば、ごく自然な成り行きだったのかもしれません。もともと、ステージなどでは、全身を使ったパフォーマンスをしていましたが、それはダンスというよりは、音に合わせた揺れといった雰囲気でした。
それでも、しなやかな腕や腰の動きには只者ではないオーラが漂っています。
CYBORGというアルバムのPVでは、ディジュリドゥが紡ぐビートに合わせてGOMAが踊るシーンも見られます。また、近年のGOMAのライブでは、目を閉じたGOMAがディジュリドゥを演奏しながら、両腕を使って滑らかに踊る姿を見ることができます。東洋の秘儀的な不思議で魅惑的なその動きに、耳だけでなく目まで惹きつけられます。
ディジュリドゥとコンピューター
ディジュリドゥは原始的な管楽器です。GOMAが演奏に使っているのも、ごくシンプルなディジュリドゥですが、その表現方法はアボリジニたちのシンプルな演奏方法とは異なる部分があります。
ライブやアルバム作りでは、打楽器などのシンプルかつ原始的な楽器との組み合わせだけでなく、コンピューターを使った音作り方法も取り入れています。
原始的で単調なディジュリドゥの音を一度コンピューターに取り込み、それを分解したり変化させたり新しく組みなおしたりを繰り返して、まったく新しいディジュリドゥの音を作りだしているのです。
ディジュリドゥって?
ここで基本に立ち返り、GOMAが演奏するディジュリドゥとは何なのか、簡単にご紹介します。ディジュリドゥを知ることは、GOMAとGOMAが作り出す音楽を知ることにもつながると思われるからです。
オーストラリアの先住民アボリジニが使う管楽器であることはご説明済みです。材料はユーカリ。コアラが葉を食べ、枝や幹は白アリに食われる、あのユーカリです。ディジュリドゥは、白アリに食われて空洞ができたユーカリの木を使ってつくられます。そう、菅の部分は白アリによって掘られているのです。
本来は自然に白アリに食われたものを材料としますが、木に穴をあけて白アリを強制的に侵入させて穴を掘らせるという強引な製法もあります。
ただ、どちらにしても管の部分を白アリに任せるため、大きさや長さなどはその時(白アリの食い散らかし加減)次第。また、同じアボリジニでも、部族や家系などによって、微妙にディジュリドゥの形も呼び名も異なります。
ちなみに、ディジュリドゥという名は、オーストラリアに入植した白人が耳にしたその音色「ディジュリドゥ~~」を擬音化したものです。また、ディジュリドゥのアボリジニ名にMagoというものがあります。GOMAの名はここから来ているのかも? と勝手に想像したり。
ディジュリドゥそのものは1000年以上の歴史を持つと言い伝えられていて、その通りであれば、世界最古レベルの管楽器となります。また、男性楽器であり、女性が吹くことを禁止するアボリジニがほとんどです。
GOMAを襲った事故と後遺症
順調にディジュリドゥ奏者として活動を続けていたGOMAに突然のアクシデントが襲います。渋滞中の高速道路で後続車に追突されたのです。この事故で、GOMAは一見大きなケガをせずに済んだように見えました。ところが、GOMAの脳は大きな衝撃を受けて、見えない部分で傷ついていたのです。
科学がいくら進歩しても、脳の機能のすべてを理解することは難しいでしょう。GOMAは、事故によって「記憶」の機能に障害を持ちます。過去の記憶の一部を失い、さらには、新たな記憶をするための機能も十分に働かなくなってしまったのです。
事故の後帰宅し、そこにあるディジュリドゥがいったい何なのかさえわからなくなってしまったGOMA。比較的古い記憶は残り、新しい記憶ほど失われてしまったGOMA。家族とも友人や仲間とも、そして自分の一部でもあったディジュリドゥとも距離ができてしまったのです。
GOMAの異常に気付いたのは、医師でも本人でもなく家族でした。判定が難しいとされる脳機能の異常について、さまざまな情報収集や複数の医師との診断を経て、高次脳機能障害であることを認知し、そのためのリハビリを始めました。
GOMAは治療やリハビリを経て、また彼自身の心(魂)と脳の葛藤を客観的に眺め、それを受け入れることで、少しずつ記憶の障害を乗り越えていきます。
今も彼の失った記憶のすべては戻ってきていません。また、日々の記憶もまたすべてを残していくことができません。それでも、彼は記憶の引き出しを探し、引き出しの鍵となる日記を書き、人と出会って話をしていき、パフォーマーとして復活を果たしました。
GOMAの新しい光と絵の世界
GOMAが事故にあって記憶障害となった時、彼の目に入ったのは、部屋に何本も立てておかれていたディジュリドゥではなく、机に無造作に置かれた彼の娘の絵具でした。
その当時の記憶もまた明確に残っていないGOMAですが、「描かずにはいられない」という衝動にかられるままに、絵を描き始めます。完成したのは、非常に緻密な点描画でした。
それまで絵が得意だったこともなければ、特に好きだったわけでもないというGOMA。ただ、頭に浮かんで消えないイメージを外に出すために描き続けます。
これを、臨死体験時の光景だと考えることもできれば、脳が障害を受けたことで、これまで日常的な活動によって抑制されていた脳の機能が表面に表れやすくなったのが原因だという説もあります。
事故後GOMAにとって、その光景は「記憶にある貴重な景色」であり、絵を描くことは、「やらずにはいられないこと」だったのです。
GOMA画家デビュー&個展開催
彼が描いた点描画は、個展を開催できるまでに書き溜められ、アーティストとしての新しい才能が歓迎され、同じく高次脳機能障害を持つ人々の共感を呼んだり、脳の研究者たちの興味を引いたりもしました。
時間が立ち、ディジュリドゥが自分の仕事であり、主たる活動だったことを認知したGOMAですが、彼の中に巣くう光の世界は、今も絵となり、時には映像となって、私たちの前にも現れています。
高次脳機能障害とアーティストGOMA
GOMAは事故で高次脳機能障害となったことで、自分と同じように苦しんでいる人の存在を知ったといいます。
記憶がないこと・記憶力がないことからくる不安は、日常生活全般、特に人間関係において大きなプレッシャーにもストレスにもなることでしょう。自分を知っている人のことが自分には分からない。自分がしたこと、自分がすべきことが分からない。その結果、内側に引き籠る人が多い中、GOMAは積極的に外に出て、相手から自分の記憶を聞き出し、日記を書くことで、リハビリを行うようになります。
また、脳科学や脳医学の面でも、高次脳機能障害の認知という意味でGOMAのアートが役立っているといいます。高次脳機能障害によって、光が見えるという話は非常に多いそうです。世の中で臨死体験といわれるものもそこには含まれます。ただ、その光景を見ているのは、高次脳機能障害を持つ本人だけ。そして、その本人はそのイメージをうまく表現して人に伝えるのが難しい場合が多いそうです。
ところが、GOMAは、自分の体験している光景を絵にし映像にすることができました。これが、脳機能を研究する人々の理解を助け、ひいては、高次脳機能障害を持つ人々の状態認識にもつながってきているそうです。
GOMA自身がフラッシュバックとして繰り返し見る光景を画像化がすることが、自分や自分と同じような症状を持つ人々の治療の助けになっているのです。
GOMAの現在の活動
GOMAは現在もディジュリドゥ奏者として活動しています。ディジュリドゥという楽器を見た記憶も奏でた記憶も失ったGOMAでしたが、ディジュリドゥを手に取り口をつけた途端、演奏することができたといいます。それは脳が失った記憶が戻ってきたのではなく、体が覚えていた記憶が起こした奇跡だといいます。
GOMAがディジュリドゥを演奏してきたという体験が、今、GOMAの演奏活動を支え、さらに発展させています。
自分の作った曲であっても、それを憶えるのに非常に苦労をするというGOMA。そんな彼が、今はライブの場にも戻ってきています。
また、引き続き、彼の中に見える光の世界は点描画として描かれ続けています。現在では、記憶の中身をそのまま排出するように描きうつすだけでなく、一定のテーマのもとで描くこともあるそうです。
まとめとして
GOMAがたどってきたもの。それは、ダンス、ディジュリドゥ、点描画、そして光の光景の映像化など。
事故前の彼は間違いなく、自他ともに認めるアーティストでした。そして事故後の彼は、アートとは違う世界に目覚めた人のようにも見られることがあるでしょう。彼の活動のスピリチュアルな面の方が強調されることもあります。
GOMAはHIP HOPダンサーからディジュリドゥ奏者になりました。そして、事故によって障害を得たことで、新たな世界へと踏み出しました。それは確かです。
事故はもちろんのこと、その後の活動に、彼の積極的な「意思」が働いていたかどうかはわかりません。それでも、彼が通ってきた道、進んでいる道をみると、それがすべてアートであり、彼は常に表現者であることがわかります。彼自身が生み出そうと努力したものであろうと、天啓のようにひらめいたものであろうと、それがGOMAによるパフォーマンスであること、アートであることに変わりはありません。
大きな試練・転機を乗り越えたGOMA。これから、いったいどんな新しい才能を発揮してくれるのか? 私たちは、世の中が取り上げたがる傾向の強い、異才が現れた「理由」ではなく、異才を目にする「チャンス」に恵まれたこと、それを単純に楽しみ、これからのGOMAの活動をサポートしたいものです。
社会を捨て私たちと共に「旅人」になりませんか?
月収38万円~保障。学歴・性別・年齢・経験 問いません。旅が好きな人、旅人になりたい人を募集しています。