お勧めの観光スポットを提供するのがこのサイトの役目ですが、今回は“お勧め”という観点から離れて、アウシュビッツ強制収容所を実際に訪れて学んだことを書き綴りたい思います。
アウシュビッツ強制収容所とは
アウシュビッツ強制収容所は、1940~1945年にかけて当時ドイツが占領下においていたポーランド南部の都市オシフィエンチム(Oświęcim)に作られました。ポーランドの古都クラクフから車で1時間程の場所です。
アウシュビッツという名前で知られていますが、これはオシフィエンチムのドイツ語名です。
何故この場所が収容所建設に選ばれたかというと、ヨーロッパの中央で鉄道の接続が良く、炭鉱や石灰の産地が近く軍事行為に欠かせない物資の生産を行うのに適していためだそうです。
戦時中、ヨーロッパ中から130万人もの労働者がここに強制連行されました。そのうち110万人がユダヤ人、ポーランド人14~15万人、ジプシー2万3000人。ソ連の捕虜1万5000人、その他の人種が2万5000人。ユダヤ人以外の収容者は主に政治犯、同性愛者、障害者、捕虜などでした。およそ110万人が虐殺され、その90%がユダヤ人でした。
第1収容所(アウシュビッツ)、第2収容所(ビルケナウ)、第3収容所(モノビッツ)と40以上の付随する施設全体で150万人が犠牲になったと言われています。
※数字は施設の展示資料から抜粋しています※
見学時の注意事項
開館時間は時期によって大きく異なるので、公式ホームページで確認してください。
入場は無料です。見学ツアーに参加する場合はガイド料がかかりますが、ガイドツアーに参加することを強くお勧めします。
ワイワイ騒いで見学する場所ではないので、見学のルールをしっかり守りましょう。
収容所内は基本的にフラッシュなしであれば写真は可能です。収容された人達の刈り取られた髪の毛が展示してある部屋だけは、劣化を防ぐため撮影自体禁止です。とはいえ、ここはちょっと撮れない、と思う場所が幾つもありました。
収容所の中へ
収容所の入り口。「働けば自由になる」と書かれています。
「B」の文字が上下反転して作られているのは、収容者達のせめてもの抵抗だと言われています。
連れてこられた人々は、あとで返すからと言われ鞄に名前を書かせられます。
これらの持ち物が本人の手に戻ることはありません。
大量の靴が没収されました。
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表現できない空気感
アウシュビッツには独特の空気が流れていました。これだけ多くの人が犠牲になったのだから無理もないです。
見学した日はどんよりとした曇り、灰色の空が更に気持ちを重くさせました。
ここはユダヤ人を絶滅させるための施設で、如何に効率よく彼らを殺すかが重要だったのです。人間を絶滅させる、そんな恐ろしいことが行われていたのです。
ヨーロッパ各地から送られてきたユダヤ人達は、まず労働力になるか否かで選別され、選別に洩れた人々はガス室送りになります。特に老人、妊娠中の女性、子供たちが虐殺の対象となりました。
虐殺を免れた人々は頭髪を刈られ、囚人服を着せられ、写真撮影、管理番号の刺青がされました。労働力とみなされた人々も「働けば自由になる」どころか行き着く先は死。劣悪な住環に過酷な労働、働けなくなったら即座に殺され、新しく送られてきたユダヤ人達をまた働けるだけ働かせる、それが繰り返されました。
同じ人間同士、一体何をどう間違ったらこんなに残虐な行為ができるのでしょうか。
「死の壁」の前では大勢の人々が銃殺されました。
ガス室です。
シャワーを浴びると伝えられ、裸でここに詰め込まれました。毎日数千人もの人がここで命を落としました。ガス室は最も効率的に、大量に人を殺すのに最適な方法だったのです。
第2収容所ビルケナウ
第2収容所ビルケナウは、第1収容所から車で10分弱。無料のシャトルバスがあります。
総面積は1.75平方キロメートルの広大な土地にバラックが並んでいます。
居住棟は第1収容所に比べてかなり簡素です。
どれだけ寒かったことか、とても人間の住む場所とは思えません。
最後に
見学中、ガイドさんの話を涙目になって聞いていました。
今なお戦争は終わっていません。人間の残虐な行為も日々何処かで起こっています。
平和な時代が一日も早く訪れますように。私たちにできることは、ただ祈るばかりなのでしょか・・・。
亡くなられた沢山の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。