死海の名は、塩分濃度が高すぎて生物が生息できないことから名づけられた呼び名だという。しかし、現実の死海は今、自身が死にゆく運命にあえいでいる。
他の生物にとっては死海でも、人間にとっては生海とも呼ぶべき湖だ。古代からアラビア半島の砂漠地帯の保養地として愛されてきた死海は、現代に入っても、高級スパ・リゾートとして、また旧約聖書の世界が体験できる伝説と遺跡の地として、多くの観光客を呼び寄せ続けてきた。
しかし、死海は年々干からびていく。旅行者である我々にできることは何だろうか?
死海の特徴は、「沈まない」こと
体を沈ませることができない。それに尽きるだろう。
「浮く」と表現することもできるが、「浮く」のは、水さえあれば、カナヅチでないかぎり、どこでもやろうと思えばできる。しかし、潜ったり沈んだりが「できない」場所は、ほかにないのではないだろうか?
そして、この強制的に「浮いてしまう」状態が、老若男女を興奮させる不思議で愉快な体験であることは間違いない。写真などでその不思議な光景を見たことのある人も多いだろう。
海やプールで水遊びをしながら浮かぶのは、ふつう仰向け。うつ伏せても浮くことはできるが、顔を伏せているか手足を動かしている必要があるのは、経験上お分かりいただけると思う。
ところが、死海では、大きなゼリーかクラゲの上に乗っかったように、お腹もお尻も、手足もポコンと水面に浮きあがってしまう。浮いた状態で、少しの腹筋を使って上半身を起こせば、そのまま死海のソファに身を任せて、本でも新聞でも読めるのだ。
死海を取り囲む国
アラビア半島北西部に位置する死海は、その周囲をイスラエル(西側)、ヨルダン(東側)に接している。軍事的に占領されている地域もあり、その国境線は一部で不穏な場合もある。
観光客としての移動中、国境の行き来は何度か体験するだろう。モメることは多くないが、ものものしい警備やパスポートチェックの時間のかけ方に、国々の事情が見え隠れしているような気もする。
死海をプカプカと波に揺られて浮かんで流されてしまうと、知らぬ間に国境線を越えてしまい、不法入国で捕えられる可能性もないでもない。
死海の形成
死海は巨大なヨルダン渓谷の一部である。この渓谷が形成されはじめたのは、1000万年前。白亜紀以前は海だったともいわれている。この地が海底隆起を起こした結果、パレスチナ高原・ヨルダン渓谷が形成されたそうだ。
アフリカを、キリマンジャロ・紅海・死海を結んだ線で東西に割こうとする「大地溝帯」は、アフリカプレートとアラビアプレートの境目にあたり、マグマ活動も盛んだったため、周囲には温泉がたくさん湧きだしている。
死海の塩分は海底だった頃の名残であり、土壌に含まれていた塩分は雨によって流され、時には温泉として溢れ出し、より下流の渓谷に水がたまって湖になると、塩分をも流し込んでいった。
ヨルダン川を含む7つの川が流れ込んでいる死海だが、流れの出口はない。しかし、高温乾燥地帯であるため、雨量よりも蒸発量の方が勝る状態が続き、湖の水は減り、塩分濃度が上がっていく結果となっている。
死海の平均塩分濃度はなんと30%。地中海の10倍である。1リットルのペットボトルの死海水の中に、300g近い塩が含まれていることになる。
日本には、塩分の濃いしょっぱい温泉が多く存在しているが、死海の水はしょっぱいレベルではない。苦いのだ。
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塩分濃度と浮力
学生時代に頭を悩ませた浮力の不思議を体感できる死海。
塩水に浸かったからといって、残念ながら本当に体重が減るわけではない。重さが水中のさまざまな力によって相殺されて、軽く感じられるのだ。
「アルキメデスの原理」を思い出したい。「ものを水に入れると、ものがおしのけた体積の水の重さと同じだけ軽くなる」のがこの原理。これを死海と人間に当てはめると、「人間が死海に入ると、人間がおしのけた体積の死海水の重さと同じだけ軽くなる」ということになる。
死海水は塩がたっぷり入っているので、普通の水よりもずっと重たい。そのため、ある人間が、水に浸かった場合と死海に浸かった場合では、重たい死海に浸かったほうが軽くなるというワケだ。
極端な話、家庭の風呂に大量の塩や砂糖を溶かし込めば、浮きやすい風呂も作ることができる。
歴史
エルサレムが近いだけに、死海周辺では、旧約聖書由来の遺跡が数多く発見されている。また、クムラン洞窟で発見された「死海文書」は、20世紀最大の発見と呼ばれているほどだ。
旧約聖書は伝説的な内容が多く、神にまつわる記載に登場する地名を現実の遺跡と一致させるのは難しい。しかし、死海沿岸にある古い遺跡群の発掘や研究が進むにつれ、伝説の一部が史実として認められつつある。
歴史好き、宗教的な関心の持ち主であれば、死海は、塩水浴やスパがなくても十分に堪能できる、冒険心や探究心をくすぐる謎でいっぱいの地といえる。
死海の将来
死海は既に、海抜にしてマイナス428mと、地表面ではもっとも低い。それだけ低い場所でありながら、たまる水は年間降水量100mm以下の川に頼るばかり。
死海の水は今も蒸発しつづけている。降水量が少ない以上、自然に湖水量が増えるという期待はできない。
湖面は年1mのスピードで下がっていて、このままでは数十年で干上がってしまう可能性もあると指摘されている。
重要な観光資源でもある死海の消滅に危機感を覚えた、イスラエル・ヨルダン・パレスチナの3地域は、紅海から死海までパイプラインを敷き、水資源として真水を取り出した後の高濃度の海水を死海へと流す計画に署名した。
世界銀行からの融資によって行われる計画で、180kmに及ぶパイプラインは3~5年かけて建設される予定だという。
何ができる? まずは浮かぼう
遺跡観光、国立公園散策、温泉保養、スパなど、長期間滞在しても楽しめるだけの観光資源がある地域である。
しかし、やはり死海に浮かぶことこそが、もっとも正しい楽しみ方だろう。
死海では、溺れる心配はほとんどない。泳げない人も水恐怖症の人も、ぜひ水中水上浮遊を体験してほしい。
塩水による浮力は、全ての人間にとって非常に奇妙な感覚であり、水際から恐る恐る、または駆け込んでくる新参者はみな、浮いてしまう体をどう扱っていいか分からず、不自然な動きをしている。
足のつく場所では、立って歩くことができるが、深いところでは行きたい方向へ進むためのよい方法が見つからず戸惑ってしまう。泳ごうにも体が浮いてしまうので、ピチャピチャ水をハネ上げてばかり。
一方でリラックスしてぽっかりと浮かんでいるのは、ベテラン組。ヨーロッパからの旅行者は長期滞在組が多く、来る日来る日も、1日に数時間は死海に浮かんで、おしゃべり、昼寝、読書を楽しんでいる。
何ができる? 泥遊びをしよう
高級スパで贅沢を楽しむのももちろんいいが、死海沿岸には、天然の泥風呂となる川や沼がそこここに存在している。
そこで転がり、手ですくった泥をペタペタと塗りたくれば、あっという間に無料全身泥パックが完了。空気が乾燥しているため、すぐに乾いてひび割れてくる。再び上塗りをしてもいいし、死海に入って泥を落とすのもいい。
無料セルフパックではあるが、お肌はすべすべに大変身する。試さない手はないだろう。
美容にはいいが、粘膜には痛い
この濃い塩分とミネラル豊富さは、お肌の健康や、腰痛・リュウマチに効果があるとされる。
しかし、1か所でもササクレがあれば涙が出るほど滲みる。蚊に刺された痕、岩塩でできた擦り傷には、まさに傷口に塩。小さな防水バンドエイド程度では防ぎきれない。
また、誤って口に含んでしまうと、舌がビリビリ。飲んでしまえば喉が焼けるよう。水中で転んだりして鼻や耳に塩水が入ると、恐ろしく苦しむことになる。炎症を起こすこともある。当然、目に入ると涙が止まらないウサギ目になる。
また、痔持ちもその状態によっては、痛みでじっとしていられない可能性がある。
気になる傷がある場合には、バンドエイドやヴァセリンなどである程度の保護策を取った方がいいだろう。
あると便利はなくていい? いや、やっぱり持ちたい物
粘膜に強烈なパンチを与える可能性がある死海水。対策としては、まず真水を持っていくこと。ペットボトルを1本持っていれば、目や鼻を洗うことができて救われる。カラになったら、死海水や泥を詰めて宿に持ち帰るのにも使える。
そして、サーフシューズなど足裏も足の甲もカバーする水陸両用シューズ。これで、岩塩で足を傷つける可能性がぐっと減る。
さらには、耳栓・ゴーグルもあると安心。こちらは、あくまでオプショナル。
あとは、のんびりとリラックスした時間を過ごすためのグッズ。防水のカメラや音源も嬉しいし、新聞や雑誌、本も楽しい。
殿様お姫様気分を味わう
死海の塩水浴や泥パックは無料で使い放題。必要経費は、更衣室やシャワーの代金程度。そんな、予算的にはピンキリのキリで過ごすこともできるが、もし余裕があれば、ピンキリのピンの贅沢さを楽しんでみてはどうだろう。
スパ・リゾートが軒を並べ、その価格やサービス内容もそれこそピンからキリまで。
長旅の疲れを癒すために、または美肌を手に入れるために、殿様やお姫様の気分を味わうために、時には贅沢な体験もしてみたいものだ。
各国が競うリゾート開発~イスラエル側
イスラエル側では、以前から死海リゾート地が開発されている。
死海の西側沿岸、イスラエル領北側の観光都市「エン・ゲディ(Ein Gedi)」は、「子ヤギの泉」を意味するヘブライ語が語源。旧約聖書によるとダビデが身を隠した地とされている。
エン・ゲディには、野生動物たちのオアシス「エン・ゲディ国立公園」があり、公園内の「デビッド・フォール」、「アルゴット・フォール」は、まさに砂漠のオアシスといった感じの泉と滝で、水遊びを楽しめる。
少し南下すると、エン・ゲディ・スパ・リゾートがあり、死海沿岸の数多いリゾートの中でも有数の豪華さと美しさを誇る。施設の立派さだけでなく、ビーチの美しさに定評があり、凝固した塩と塩水と空と太陽光が複雑な色彩をビーチのそこここに作りだしている。
南側の観光都市が「エン・ボケック」。茶色い岩山を背負った死海岸沿いに高級ホテルが立ち並んでいる。
天然温泉や泥地帯も多く、マサダ国立公園や死海文書が発見された「クムラン洞窟」が近いことでも人気がある。
各国が競うリゾート開発~ヨルダン側
近年、死海観光の中心地として客足を伸ばしているヨルダン側。
ゆったりとスパを楽しむ高級リゾートの雰囲気を醸し出すイスラエル側に対し、ヨルダン側は比較的大衆的な施設も多くあるのが特徴だ。
各ホテルではデイユーズが可能。ホテル内で食事はもちろん、更衣室、シャワーやプールが使えるので、死海の塩を洗い流すのに便利。また、ホテル以外にも日帰り観光のための施設が建てられていて、より安く、簡易シャワーを使える場所もある。
いつ行く?
ハイシーズンは、春から秋。年間を通じて比較的温暖で乾燥気味。夏場は大きなツバの帽子をかぶって日除けをしながら、浮かぶ女性たちの姿もよく見かける。
また、冬も死海浴は行える。さすがに気温は低めだが、死海の水温はかなり高い。温めの露天風呂感覚だ。しかし、大衆用のシャワーは水のみがほとんどなので、温まった体に乾燥した冷たい風と冷たい水は、キツイ。覚悟が必要。
お土産
日本でもよく見かける「死海」グッズはここから輸出されている。お土産としても、バスソルトや泥パックなどがいろいろと売られている。
しかし、すぐそのあたりにある塩や泥を買うのに抵抗を感じるなら、岩塩を拾って持ち帰るという手もある。日本のお風呂に浮かべて溶かしながら入れば、即席死海風呂になりそうだ。
最後に
死海の枯渇は、人災ではなく自然現象である。人工的に降雨量を増やすことはできず、変わりに水を引ける川も近くには存在していない。そんな状況下、この重要な地域を守ろうとする動きが活発化している。
政治的・宗教的に不安定な地域ではあるが、共同の利益のために協力しあい、貴重な資源を守ってほしい。
我々旅行者は、その地を訪れて楽しみ、人に語ることで、死海の存在を知らしめ、その存在の重要性の認識を深めるという形で協力していけるのではないだろうか。
そこを訪れた人しか感じることのできない感動を、写真、動画、そして言葉で表現してみませんか? あなたの旅の話を聞かせてください。