WHAT’S THE MEANING OF LOVE?〜愛とは何だ?#2

WHAT’S THE MEANING OF LOVE?〜愛とは何だ?#2

#2 いのちをいただく

先日自分がやっているSNS上で見かけた話がある。
絵本や紙芝居にもなり、全国の学校などでも読み聞かせで感動されている「いのちをいただく」という物語だが、まずその話を読んでみてほしい。
この絵本を買っていないので、この内容がすべてかどうかはわからないが、以下のような内容の本であるようだ。

『いのちをいただく』

牛を殺すとき、牛と目が合う。 そのたびに坂本さんは、
「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。
ある日の夕方、牛を荷台に乗せた一台のトラックがやってきた。
「明日の牛か…」と坂本さんは思った。
しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。
不思議に思って覗いてみると、10歳くらいの女の子が、
牛のお腹をさすりながら何か話し掛けている。
その声が聞こえてきた。
「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ……」
坂本さんは思った、
(見なきゃよかった)
女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。
「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。
だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。
ばってん、みいちゃんば売らんと、お正月が来んとです。
明日はよろしくお願いします…」
(もうできん。もうこの仕事はやめよう)
と思った坂本さん、明日の仕事を休むことにした。
家に帰ってから、そのことを小学生の息子のしのぶ君に話した。
しのぶ君はじっと聞いていた。
一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言った。
「やっぱりお父さんがしてやってよ。
心の無か人がしたら牛が苦しむけん」
しかし、坂本さんは休むと決めていた。
翌日、学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。
「お父さん、今日は行かなんよ!(行かないといけないよ)」
坂本さんの心が揺れた。そしてしぶしぶ仕事場へと車を走らせた。
牛舎に入った。坂本さんを見ると、 他の牛と同じようにみいちゃんも角を下げて威嚇するポーズをとった。
「みいちゃん、ごめんよう。  みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。  ごめんよう」
と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。
殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。 坂本さんが、
「じっとしとけよ、じっとしとけよ」
と言うと、みいちゃんは動かなくなった。
次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。
牛の涙を坂本さんは初めて見た。

この絵本のあとがきには、作者からのメッセージが添えられている。

「私たちは奪われた命の意味も考えず、毎日肉を食べています。
自分で直接手を汚すこともなく、坂本さんのような方々の悲しみも苦しみも知らず、肉を食べています。
『いただきます』『ごちそうさま』も言わずにご飯を食べることは  私たちには許されないことです。
感謝しないで食べるなんて許されないことです。
食べ残すなんてもってのほかです…」

この投稿に寄せられたコメントの多くは「感動した」「涙が止まらない」といった言葉のあとに
「生命をいただいているのだから、感謝を持たなければならない」
といったものが主流だった。

どの人も、生命を粗末にしてはいけない気持ちを持っていることは素晴らしいし、こういった現実があるために、感謝の気持ちを忘れてはいけないと思う気持ちも理解できる。
日本で教育を受けて来た人間の大多数が、同じ感覚を共有するのだろうし、それが常識であり良いこととされているのが、現在までの日本という国であるのだろう。

子どもたちに伝えること

いただきます、ごちそうさまと言って残さず食べるのは、生命に対する感謝の気持ちであると重々承知しているし、至極真っ当で正しい心だと思う。俺も子どもの頃からいただきます、ごちそうさまと言い、残さず食べるようにしてきた。
しかし、この物語にしろ、感謝していただく心にしろ、作書のあとがきにしろ、コメントの大多数にある意識にしろ、全ての根底に揺るがずに存在する常識として

「肉を食べることが当たり前であり、肉を食べることが前提」

という認識があると感じるのだが、それは違うだろうか?
「なぜ物語の背景にある根本や原因を考えてみないのだろう?」と、非常に不思議な気持ちになった。

悲しい事実ばかりが書かれたこの物語には「なにひとつ良い話などない」と俺は感じてしまう。
・坂本さんの仕事に対する辛い思い。
・一緒に育ったみいちゃんを殺すために送り出す女の子の悲しみ。
・おじいちゃんの苦しみと生活苦。
・「どうすればみいちゃんを苦しめずに殺せるか」と、子どものしのぶ君が考えなくてはならない現実。
・殺されることがわかり、人間と同じように涙を流す牛のみいちゃん。

この物語の一体どこに、感動する話や良い話があるのだろう。
みいちゃんが犬や猫だったら?みいちゃんが人間だったら?
子どもに殺す方法を考えさせたい親がいるのだろうか?

この物語の解決法、心の置き所として「生きるために仕方なく殺してしまうのだから、感謝して生命をいただく」ということであると思う。
しかし何故、殺さないことにより生まれる幸せや素晴らしさを、絵本や紙芝居にして子どもたちに伝えないのだろう。
何故、廃棄される食品の多いこの飽食の時代に、殺されて肉にされる動物にまつわる、何一つ良いことのない悲しくてやりきれない悲惨な話を、子どもたちへ教育のように伝える必要があるのだろう。
何故、悲しい現実が起きないように生きて行く方法を、子どもたちへ伝えようとしないのだろう。

ほとんどの人は小さい頃から「殺すことはよくない」と教わってきたと思う。たとえそれが動物であっても、我が子に殺し方を考えさせたい親がいるだろうか。
俺はまだ小さい我が子に、殺し方を教えたいと思わないし、苦しまずに動物が死ぬ方法など考えて欲しくない。
それがどんな生き物であろうとも、どうすれば幸せになれるのかを考えて育って欲しいと思う。

大多数の人間が理解できる、怒りや悲しみ喜びといった、人間と同じような「感情」を持った動物を、「美味しい」という欲望や、人間社会における金銭という理屈で生命を奪っておきながら、生命に感謝する意味は一体どこにあるのだろうか。

文化と伝統

そもそも屠殺業のように生き物の「死」にまつわる仕事は、武士という階級が戦争時に使う馬具や武器に使用する皮革製品を作るために、士農工商の下の階級である穢多(エタ)非人(ヒニン)と呼ばれた人に押し付けたものであると、様々な本で読んだことがある。
他にも「死」にまつわる葬儀や、切腹の際の介錯人などのほかにも、人間や動物の死に関する業務全般は、穢多・非人とされた人たちに「死を穢れ」として、上層階級が押し付けた階級制の歪みだと感じている。
それが大陸から渡って来た移民たちの生業にもなり、代々続く人たちにも受け継がれて現在に至っているが、特権階級の贅沢のために押し付けられた仕事は穢れとされ、想像を絶する差別や怒り、悲しみ、やりきれない気持ちがあるだろう。この物語の坂本さんのように。

大企業が潤うための非正規雇用や日雇いの仕事などは、何の保証もなくある日突然首を切られても文句も言えない。
武士が存在した時代に、穢多・非人に押し付けられたように、一部の人間の裕福さのため犠牲となる人間が、現代でも存在している。
どうすればこんな怒りや悲しみ、非道な仕打ちはなくなるのだろうか。

肉食は文化であり、屠殺も文化であり伝統だから受け継ぐものなのだろうか。
韓国の犬肉を食べる祭りや、中国でも犬や猫を殺して食べる祭りがある。
日本でも静岡県の方では、今でもイルカ漁の文化があるし、日本には昔からクジラを食べる文化がある。
日本は太古の昔から島国で海に囲まれているため、魚を食べる文化がある。
文化や伝統という部分はよくわかる。しかしよくない文化を継続させて守る意味は、一体どこにあるのだろう。新しく素晴らしい文化を生み出して行くことの方が、よっぽど子どもたちの未来のためになるのではないだろうか。

建国以来戦争を行い続けているアメリカでは、もう戦争が文化と言っても過言ではないだろう。
イスラム圏の国の中には、いまだに女性器の一部分を切り取る文化もある。
人肉を食う文化を持った部族もいたし、日本でも昔は生活苦のために年寄りを山に捨てる文化もあった。
江戸時代などには、農村の貧困家庭では、女の子が遊郭に売られて行く文化もあった。
東南アジアの国々では、今だに貧困家庭の女の子が都会で売春をするために売られる現実もある。
他の国から無理やり連れてこられた人々を、奴隷とした文化もあり、現在でも根深い差別が横行している。

こうした世界中にある、その国々で行われている悪習も「文化だから」「伝統だから」といって、残していくべきものなのだろうか。
俺個人的には、すべてなくすべきだと思うし、許せるものではない。悪しき風習は消え去るべきだ。

生命への感謝の限界

「いのちをいただく」というこの物語を読んで、俺は考えてしまう。
「どうすれば牛のみいちゃんは殺されずに済んだのだろうか」と。

動物を食べなくても人間は生きていけるのに、そこに動物の生命の犠牲は必要だろうか。
動物を食べなくても「美味しい」や「お腹いっぱい」という欲望は満たされるのに、そこに動物の生命の犠牲は必要だろうか。
ラーメンも焼肉も、和食もハンバーガーもスイーツも、一切動物を殺さずに美味しく食べることができるのに、そこに動物の生命の犠牲は必要だろうか。
恐怖に怯え、死を覚悟して涙を流すみいちゃんを、俺は殺したいと思わないし、殺すべきではないと心から思う。
おじいちゃんの家庭の生活苦を救う手段も、家族同然で育ってきたペットのような存在であるみいちゃんを、殺さなくて良い方法が必ずあるはずだ。

植物には誠に申し訳ないが、俺は生きるために生命に感謝していただくのは、喜怒哀楽が動物よりも理解しづらい植物だけにする。
「いただきます、ごちそうさま」と言い、残さずに食べ、植物の生命に最大限の感謝を持って食事をする。
生きるために生命を殺さなければならない業を持つからこそ「いのちをいただく」食事で犠牲にできる生き物は、俺には植物が限界だ。

人間に対して痛みや苦しみ、悲しみや喜びを伝えることができる動物を、たった何分かの食事のために殺している事実。俺はそんなことを自分の中で正当化し、自分自身に対して言い訳ができない。
牛丼一杯を作るための、わずかな肉の量のためだけに、牛は殺される。
肉を食わなければみいちゃんは死ななかった。
俺にはこの物語に、そんな答えしか見つけることができなかった。
俺は間違っているのだろうか……。

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